エ ッ セ イ |
このページは、つれづれに感じたこと考えた事を節操なく書いたものを集めました。 BBS 「千とひとつの贈り物」からの転載もあります。 これからは、メルマガからの転載もするかもしれません。なんでもあり、のページです。 |
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法然院報告 2004/6 |
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プロフィールを書こうとして気づいたこと 2004/4 |
プロフィールを書こうとして、どう書くか、ずいぶん悩みました。 プロフィールというのは、自分は何者かということを伝えるためのものですよね。 私は以前何度も何度も自分の人生の歴史を見直す、という作業をやりました。 自分は誰なのか、なぜこのような性格なのか、 なぜ他の人が平気な事が私にとって苦しいのか、 なぜ似たような出来事が繰り返されるのか、 そんな謎をとくために自分の歴史を徹底的に見直すことは効果がありました。 (これにはいろいろな方法があり、それぞれにとても面白いものです。体験したい方は申し込んでください。) 私はこういった事に関してはずいぶん心が整理されている、と想っていたのですが、どうもそうではなかったようです。 先日、不思議な体験をしました。 ある所に行く途中、公園があったので中を通って行こうと思いました。足を踏み入れると、昨日の雨で芝生が美しくしっとりと濡れて、その上にたくさんの桜の花びらが散っていました。 みずみずしい緑と淡いピンク。 その美しさは衝撃でした。 涙が止めどなくあふれて、あふれて、 ただその美しさの中で、訳もわからず、立ち尽くして、 上を見上げればまだ残っている桜の花が、圧倒的な迫力で私の中に飛び込んでくる。 目線をそらすことができない。 なんだか、身体が震える。 他の木々を見れば、葉の一枚一枚が、命鮮やかにくっきりと存在している。 木々の向こうの空は、深い青。 透明な青。私は花や木々、空がこんなに美しいものだとは知らなかった。 ボロボロ泣きながら浮かんできたのは 「私はいったい、今まで何をしてきたんだろう。」 「私はこの地球に対して、今まで何をしてきたんだろう。」 という想いでした。 そして、にもかかわらず、自分がどれほどに深く愛されているかという圧倒的な真実が大地や花から伝わって来るのでした。 そしてその体験とどうつながるのかはわかりませんが、私の中で深い真実として立ち上がってきたのが、 人生に「何が起きたのか」ということは本当はあまり重要ではないんだな、ということです。本当に大切なのは、その状況でどう受け止めてどう行動するか、という事に尽きるように思います。 たとえば何か被害的な出来事が起きたときに、悲劇の主人公になるのか、ただ起きたことを起きたこととして受け入れて、次に進むのかということです。 もし私たちが生まれる前に、この世で何かを学ぶために必要な配役やイベントを自ら設定してくるのだとしたら、それは何かに気づいたり体験したりするための最善のものであるはずですよね。 だとしたら、起きたことについてあれこれ言ったり、原因を追及するなんて、本当にバカげたことだと思うのです。 そしてもう一つ気づいたことは、「体験=私」つまり体験にアイデンティティを置いていた私だったんだ、ということでした。 「私」という存在はイコール「体験」ではないんだ、とあらためて自分の心に語りかけるようにすると、不思議なざわめきと共に安心できる感覚が浮かんで来ます。 私は実は今までいつも、自分の歴史のある部分を隠して来ました。上記の体験をしてからはもうオープンにしてもいいし、ことさら人に話さなくてもいいし、と思えるようになりました。 そして、これでやっとプロフィールが書けるような気がします。 |
法然院ワークショップ報告 |
先日の法然院のワークショップでのこと。 去年、十牛図に出会った時は、これだ、という直感となんだか分からない感動だけで動いていた。 一年学んでみて、これはただごとではないということが染み込んでくる。 私は他の様々なセッションやヒーリングの体験談は、どんどん簡単に書けるのだけれど、この十牛図の話しは書けないのです。 表現することがとても難しい。 でも実は私が一番大切にしている学びで、一生かかわり続けるだろうと思う。 自分が繰り返し繰り返しひっかかってしまうことが、どれほど些細なものなのか、 絶対的な力を持って私を引き止めているように思えたものが、 実態のない幻想だったと気づいた驚きと安堵。 毎回、そんなことが私の中で起きてくる。 何度見ても泣いてしまう映像がある。 サッチモがベトナム戦争の慰問に行き、近くを戦闘機が飛んでいる屋外で兵士たちを力づけるために歌う。 それは星条旗よ永遠なれ、とか軍歌的なものではなく、 この世の美しさを賛美する「ホワットアビューティフルワールド」なのです。 今から人を殺しに行く人たちに向かって、サッチモは極上の美酒のように歌う。 サッチモのように生きる事が出来たら、出来るはずなのだから、 自分の身の上に何が起きようとも、目の前にどんな現実が立ち現れようとも、私たちはたった今を至福として生きることが出来るはずなのだ。 目の前の現象に左右され、揺り動かされる自分を見るたびに、サッチモを思い出す。 さらに今回は、38憶年の記憶を持つ細胞で私たちは構成されているんだ、ということをリアルに見せてもらった。 私たちがお借りしているこの身体は、38億年の記憶を持つものなのだ。 「神」はどんな思いで人を創ったのだろう。 その計り知れないスケールと愛に圧倒されてしまった。 |